いま「財政規律」が問われていますが、企業の場合は、そのようなことは問うまでもなく、それを無視すれば倒産してしまいます。ではなぜ、行政の場合にはそれが問題となるのか。どうすればいいのか。ここではそういう問題を取り上げ、これからの行政経営、地方公会計を活かす方向について考えます。
「行政の無駄をなくす!」…これはおそらく国民の一致した意見です。しかし、行政の経費を切りさえすればいいかというと、わたしどもは、そうは考えません。単に切るのではなく、行政に対する新しいニーズに応え、将来に夢が持てるような施策を支える新しい仕組みが必要です。
 
 
(なぜいま施策余力を生み出す仕組みが必要なのか)
行政ではなぜ財政規律が問題になるのでしょう。更に、施策余力を生み出す仕組みが必要なのはなぜですか。

それは、行政が税金という非対価収入によって支えられているからです。

企業が生産するサービスは対価を支払わなければ得られません。しかし、行政が提供するサービスは非対価です。例えば、道路はタダです。それができても住民の負担が増えるわけでも、行政の収入が増えるわけでもありません。したがって、行政サービスへの国民・住民の要求は過大になりがちです。

しかし、それだけなら財政規律が働くはずです。行政に「かかった費用」は国民・住民が負担する以外にないからです。公債発行で一時的に負担の先送りができても、いずれはそうなります。しかも、地方の場合、公債発行は国に拘束されており、自由になりません。通貨発行権もありません。したがって、民主的システムが理想的に機能するならば財政規律が働くはずです。しかし、必ずしもそうはなりません。

その大きな理由の一つに、従来の財政インフラが国民・住民に対し将来に対する共通の基礎を提供してこなかったということがあります。しかも、政、官に対する国民の信頼が大きく損なわれています。

それだけではありません。現在多くの国民は孫子の代に負担を先送りしてはならないと考えています。しかし、どれを切るかとなると、総論賛成・各論反対となります。行政においては、負担が受益と切断されているために「ワリカン負け」しないようにそれぞれが自己の利益を主張し、限られた資源(資金)を奪い合うことになるからです。しかも、行政の成果は不可測で、どちらにも「言い分」があります。

更に、以前は十年一昔といわれましたが、今では価値観が多様化し、世の中の変化が速まり、次から次へと行政に対する新たなニーズが発生します。かつては地域や家庭がまかなっていた生活道路の手入れや老後の暮らしはいまや行政の役割になっています。そして、他方では、かつてのような経済の高度成長は望めず、むしろ少子高齢化が展望されます。

これに「資源はあるだけ使う」という官僚制やポピュリズムの悪弊が重なれば、財政は常に逼迫した状態となり、施策余力が生まれないばかりか、財政規律すら危ぶまれます。この状態から脱し、将来に夢が持てる施策余力を持つためには、大きな力が必要です。社会経済構造が大きく変わる中で、これを実現することは一朝一夕にはできません。しかし、それを実現しなければ、永遠に財政逼迫から脱出できません。見通しがない万年財政逼迫の下では、国民・住民は、常に満たされない不満と将来不安、増税の強迫観念にさいなまれます。これを乗り越える新たな仕組みが必要です。

 

(事業仕訳が示唆するもの)
事業仕訳が国民的関心を集め、多くの国民の支持を得ていますが、事業仕訳とは何でしょうか。

構想日本によると、行政の事業仕訳とは、予算項目ごとに、「そもそも」必要かどうかから、外部の視点で、公開の場において、仕分けていく作業ですが、これらは本来予算査定、国会・議会での予算審議を通じて当然にチェックされているはずのものです。したがって、これは財政の仕組みを補完するものではあっても、本命ではありません。いろいろな限界もあります。

共通の基礎?

みんなが共有する共通の認識ですが、施策の出発点となるものです。発生主義会計の大きな強みは、将来に対して共通の一定のパースペクティブを与え、見せたくないものも見えるものにしてしまうことです。

しかし、これが今まで見えなかったものをも国民の前に明らかにし、財政に対する国民の関心を高めたことは高く評価すべきです。すなわち、わたしどもの立場からすると、現在および将来に対する財務ポジションを国民の前に明らかにすることによる共通の基礎・理解を得ることの重要性をこれは示唆していると見られます。

それが政治、財政をリードする大きな力になることが期待されます。従来の予算決算システムは、この点の情報開示が十分ではありませんでした。この点で、発生主義財務情報に大きな期待が持てますが、それが単に「○○だった」という過去情報に止まっていては行政実践には活かされません。それが将来に対する一定のパースペクティブを与え、誰もが納得できる共通の基礎になってはじめて、発生主義の財務情報が生きるといえます。

 

(行政のムダはどこからくるか)
八ッ場ダムが話題になっています。1967年に着工し、既に巨額の財源を投入しています。一体「行政のムダ」とは何ですか。行政には特別の体質があるのでしょうか。

「ムダ」とは、「ムダ」「ムラ」「ムリ」のことです。これは、企業も行政も同じですが、行政には企業と違った特殊性があり、形だけ企業のマネジメントを取り入れてもうまくいかないでしょう。

三つの「ム」のうち「ムダ遣い」が「ムダ」であることはいうまでもありません。「ムダ」とは成果に見合わないコストをかけることですが、行政の場合、企業と違って、それ自体確定が困難です。企業の利益のように成果を測る便利な指標がないからです。時代とともに価値観も変われば、優先順位も変わります。「何が必要で・何がムダか」が一義的に確定できないためにムダの排除がなかなか進みません。

埋没コスト

失敗した事業にかかったコストのことです。

埋没コストは、捨てるというのが経営の鉄則です。何とかしようと思うのが人情ですが、何ともならないものを何とかしようとするのは、傷口を広げるだけです。

また、「ムダ」は、「ムリ」をしてでも削らないと排除できません。しかし、「角を矯めて牛を殺す」の喩えのとおり、「ムリ」が過ぎるとかえって大きな損失を生むことがあります。食品の虚偽表示とかもこの例ですが、アウトソーシングを進めることにより事業のノウハウ(企画力)を失い、モチベーションを下げてしまっては何にもなりません。

事業の方針が途中で変更になると、それまでの投資がムダになるおそれがあります。これが「ムラ」です。特に、行政は、多くの巨大プロジェクトを抱えていますので、これをあやまると大きなムダが生じます。八ッ場ダムは、このいいテーマです。

戦前は「朕が官僚に誤謬なし」といわれましたが、行政といえどもあやまりはあります。すべてはこのことの確認から出発すべきです。無謬神話はあらゆる改善を妨げます。

問題は、失敗ではなく、それをどこで見切り、次の施策にそれをどう生かすかです。規模が大きくなればなるほど「止めるに止められず」、既定の事実として流れがちです。しかし、失敗した事業は速やかに中止するのが経営の鉄則です。それをいかにうまく撤収するかが「しんがり」の役割です。一定の役割を終えた事業についても同様です。これからはこの「しんがり」の役割が一層重要になるでしょう。右肩上がりが期待できない成熟社会では、これなしには施策余力を生み出すことは困難です。

 

(予算の執行から行政の経営へ -新しいマネジメントサイクルの構築)
「行政のムダ」はどこからくるのでしょうか。それを防ぐにはどうしたらいいでしょうか。

「行政のムダ」とは何かについては、行政のムダはどこからくるか でのべました。ここではそれを排除し、施策余力を生み出す行政のマネージメントサイクルについて考えます。

(1) 行政のマネジメントサイクル-「PDS」から「APDS」へ

一般にマネジメントサイクルというと「P(Plan)-D(Do)-S(See)」または「P(Plan)-D(Do)-C(Check)-A(Action)」で示されますが、行政の場合、これは必ずしもふさわしくありません。

APDSとは?

これは福井県が平成16年度から提唱、採用しているもので、「A」は、「分析(アセスメント:Assessment)」の意味だそうです。

「計画(P)」をより確かなものにしようということです。

理由は二つです。一つは行政は巨大プロジェクトを抱え「ムラ」のリスクが大きいこと。二つ目は、行政は事後の修正が効きにくいことです。

したがって、行政の場合には、民のマネジメントサイクルの「PDS」の「P(計画)」から「A(分析)」を意図的に分離し、「APDS」に修正すべきです。

つまり、企業の場合には、「もうけ」という明確な目標があり、「利益」という”Check”が確実に働きますから、まず「やって」うまくいかなければ修正するという考え方ができます。しかし、行政の場合、これではリスクが大きすぎ、うまく行きません。実際にも行政のマネジメントサイクルはそうなっています。

 

(2) 予算の執行から行政の経営へ-”S(事後チェック)”の強化

“PDS”を学び、それを“APDS”に改善しても、それが実行されなければ何にもなりません。行政は常にこの危険をはらんでいます。その大きな要因は予算です。

予算は「使ってもいい」というものであって、「使えばいい」というものではありません。しかし、しばしば「予算の執行」「予算を使うこと」が自己目的化してしまいます。

イギリスのパーキンソンは、官僚制について、「経費は、収入に見合うだけかかる」と皮肉を込めていっていますが、「必要」だから使うのではなく、「ある」から使うという官僚制の弊害をいっているわけです。

官僚制の順機能と逆機能

官僚制はもともと大きな組織を合理的に運営する仕組みとして生まれたものです。したがって、本来、組織目的に合致し、それに貢献するはずのものです。これを順機能といいます。

官僚制は、このように、本来、合理的なはずのものですが、しばしば独り歩きし、権限を振るうようになり、自己目的化します。本来の目的を阻害するようになるのです。これが逆機能です。パーキンソンの指摘はその一つです。

官僚制というのは、行政に限ったことではありません。企業にもあります。しかし、行政と企業では、全く事情が違います。企業でも予算統制をしているところもありますが、それはあくまで内部管理事項であり、法的拘束力がありません。企業にとっては、「もうけ」が最大の目的です。

したがって、企業の予算は、あくまで内部統制のための手段であり、予定であり、計画に過ぎません。「もうけ」が得られるなら予算があっても・なくても支出すべきです。資金が不足するなら調達すべきです。逆に、損失が確実ならたとえ予算が承認されていても支出すべきではありません。

すなわち、企業は、たとえ予算統制をしても、予算を基準に行動するのではなく、「もうけ」を基準に行動するのです。経営者も従業員も株主もこの点で利害が一致しています。従業員にとっても予算以上に売上を伸ばし、予算より安く仕入れて利益を出すことは大きなメリット(評価、賞与)が期待できます。このメリット制が企業のマネージメントサイクルを支えているわけです。

しかし、行政の場合、何が期待できるでしょうか。安く調達して予算を残しても賞与は期待できません。それどころか翌年度の予算が削られる(前年実績主義)かもしれません。これでは予算消化が自己目的化するのは当然です。そこには「経営」という視点はなく、マネジメントサイクルの機能は見られません。したがって、何らかのインセンティブを与え、これを回復する必要があります。金銭的動機付けがだめでも、評価や名誉、権限の付与など非金銭的な動機付けもあります。

更に、予算の絶対視が行政のマネジメントサイクルを阻害しています。一般に、新規事業については、その予算化に当たっては、真剣に討議されます。不確定要素が多く、やってみないとわからない事項もあるからです。しかし、一旦予算による権威付けがなされると、その枠組みを事実に基づいて再吟味し、再検証するという作業がなおざりになりがちです。既定のこと・決着済みのこととして流されます。毎年継続事業として予算にあがっていた八つ場ダムもこの例でしょう。予算が行政のマネジメントサイクルを阻害しているわけです。補助金その他の予算が既得権益化するのも同じ構造においてです。ある自治体の職員は単価契約で単価が下がるとそれだけ多く発注できるといっていますが、これは予算ありきの発想で、これでは賽の河原です。

行政施策に対するニーズや効果は時代とともに変わります。そして、時代の変化が速まっており、多様化が進んでいます。予算より安いコストで調達できる場合もあります。したがって、予算を絶対視し、執行を目的とするのではなく、常に事実に照らして再吟味し、管理されなければなりません。行政のマネジメントサイクルにおける事後チェック・“S”の機能強化が必要です。

 

(3) 統合力の強化

官と民のマネジメントサイクルを比較した場合に、もう一つ大きな違いがあります。

民には、「もうけ」というはっきりした目標があり、この目標の達成に向けてあらゆる資源を統合し、活用します。つまり、民では目的による統合がマネジメントサイクルを貫徹しています。しかし、行政のマネジメントサイクルでは、この統合力が弱いということです。

行政の目標は単一ではなく、しかも行政の成果は不可測ではっきりしないために、目標が「あれも・これも」と分散し、あいまいになりがちです。しかし、それでは全体としては非効率となります。相乗効果どころか相殺効果さえ起こしかねません。大きな“ムラ”の要因となります。

財源が右肩上がりの高度成長期ならこうした“ムラ”も吸収できたかもしれませんが、今やそれは困難です。自覚的に統合力の強化を図り、将来に向かって目的を確実に実現していく目的のプロセス化が必要です。

 

(目的のプロセス化とは)
目的のプロセス化とは何ですか。

国・地方の長期債務残高は、平成20年度末見込みでも既に778兆円くらいで、このほか133兆円程度の財政投融資特別会計国債残高があるということです。しかも、地方の財政運営は拘束されていて、自由がききません。

こうした情況で財政規律の回復を図り、新しい行政ニーズに対応しようとすると、いきおい歳出をカットするか、歳入を増やすかという金縛りにかかってしまい、政策選択の幅が狭くなってしまいます。現在の情況がもはや一朝一夕に解決できるようなものではないからです。したがって、このような情況の下で、将来を図るには、目標の実現を順序だて、プロセス化するよりありません。目的のプロセス化とはこれです。長期的スパンで捉える必要があるでしょう。

(施策余力を生み出す仕組み)
施策余力を生み出す仕組みは、どう捉えればいいですか。

施策余力とは、経済資源(ヒト・モノ・カネ)を最も効果的に配分し、新たな施策に振り向けることができる余力をうむことですが、あらゆる組織行動は目的の連鎖の体系ですから、次のように定式化することができます。

施策余力 = 統合力 × 実現力

これを現実の行政の組織、政治の仕組みに当てはめると、さらに、次のようになります。

行政の組織

つまり、施策余力は、1)政治のリーダーシップを含む、2)多段階の統合力と実現力の積和です。3)これは戦略と戦術、理念と行動に対応しており、それが階層をなして展開する仕組みです。しかし、結局、4)それを担うのは人であり、実行であるということです。戦略を欠く戦術が目的を阻害し、戦術を書く戦略が画餅に帰すのは当然です。

 

(創造的予算編成 -一人一人が主役)
施策余力を生み出す予算編成、財政運営はどうすればいいですか。

従来の予算編成は、予算査定を中心とする下からの積上げ、すなわちボトムアップ方式です。そして、財政が逼迫してくるとシーリングをかけます。それぞれの実態に合わせて、きめ細かい予算づけをするためには、誰かがこれをやらなければなりません。

しかし、これをすべて財政部局がやらなければならないという必然性はありません。むしろ各部局の実現力に期待し、創造力を引き出す新しい財政運営の仕組みも必要です。それにより時代への弾力的な対応力を高め、やる気を引き出すことができます。それにはこれを支える技術的基礎も必要ですが、それは別の機会に譲り、ここでは二、三のことを提言します。

(1)ボトムアップ方式からブレークダウン方式へ

最近“ゼロベース”での予算編成ということがいわれていますが、すべてをゼロベースで見直すとすると、膨大な人手と時間(コスト)がかかります。むしろ、そのためにも財政の役割を個々の予算査定から全体の財源配分、財政計画にシフトし、現場の創造的な予算執行に委ねるブレークダウン方式に改める必要があります。いわゆる“トップダウン方式”を組み合わせるということですが、“トップダウン”というと、一方的、押し付け的ニュアンスがあるので、“ブレークダウン”ということにしました。これによって、財政は、現場の創意工夫、やる気を活かしながら、財政の全体管理と配分をリードし、全体の効率を高めることができます。予算査定から全体管理への財政機能のシフトです。

(2)予算の目標管理の仕組み-創造的予算執行

従来の予算査定方式では、要求側と査定側の協働が困難で、組織の論理も働いて、いわゆる“使いきり予算”になってしまいます。この解決策として複数年度予算もありますが、複数年度にしても、「予算は使うもの」という前提では、同じことです。そこでこれを解決するために、予算執行サイドに相当の権限と自由を与え、創意工夫を凝らして予算を執行し、管理することが魅力となるようなメリット制を導入します。

例えば、部内の予算編成と執行については、当該部署に相当の権限と責任をもたせます。創造的予算執行、予算の目標管理によって生じた執行余剰にポイントを付与し、後年度の予算に充当可能とします。あるいは部内または全庁的に必要な事業に充当します。これらによって各部の対応能力を高め、予算の要求サイドと査定サイドの全庁的協働体制を作り、新たな財源余力を生み出します。

(3)一人一人が主役

これらを実行すると、予算編成の仕組みも財政運営の仕組みも大きく変わります。そのためには、施策余力を生み出す仕組みで説明したように、政治のリーダーシップが重要です。しかし、その実現を担うのが行政組織であることを忘れてはなりません。

山本五十六の「やってみせ、言ってきかせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ」という有名な言葉があるように組織はなかなか思うようには動かないものです。しかし、だからこそ政治をはじめ強いリーダーシップが必要です。「しんがり」が評価される仕組みや組織機構の見直しも必要です。これらにより一人一人が主役のインセンティブが高い組織集団を作ることができます。ある意味では、財政が逼迫している今がそのチャンスであるといえます。それを実行するとしないとでは、大きな違いが生じるはずです。